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2011年3月10日木曜日

ぜんぜんわからないという話

ここ数日、書きたい、書かなければ、と思っているのだけれど、なかなか書けないでいる。
いろいろな局面が私に対して日々繰り広げられている。
展開されたり集約されたりした思考が、あちらこちらに散らばって、わたしにとって大切な他人の思考とかも消化されないまま、がおー、という感じになっている。

ただただ日々はとても美しい。
美しいとはどのようにありますか。

なにひとつ共有されなくても、最大限信じられる可能性を信じる。
愛とか強さとかそういう何かで。
いつもわたし。

2011年3月4日金曜日

組成

あのひと、すてき。
あのひと、だいすき。
あのひと、いとおしい。
あのひと、大切にしたい。
あなた。
あなたを。
あなたが。
あなたに。
それで、それでね。
ここにいるのです。

2011年2月22日火曜日

この外側と、あの向こう側のこと / 内側

金曜日、sacred city をみにいって、手塚さんのところのわーくいんぷろぐれすで、
自分とまわりのものとを位置づけるのをやりました。
ひとりになって自分を取り戻したいときどうするか?という質問が出発点。
私は、

食事をする カフェでコーヒーを飲む ひとりでなにも持たずに散歩する
パーティをする、に出る ←⇅→ ひとりで写真を撮りながら散歩する
友達とカフェで話す 友達と話しながら散歩する 歩く

となった。

逆のことを考えてもなぜか似たようなことになっている。
しかも、全部自分にとって快適なこととか癒されることになっている、と思った。

帰り、岸井さんにこの話をしたら、
「"WORK"がないんだね!」
と言われた。
うーん。そうなのかな。
そうなのかもね。

手塚さんには、大体「散歩してるか、喋ってるかだね」と言われました。
確かに。
一緒にやったいしわたさんは大体「窓」で、面白かった。

この日は、その前に羊屋さんの
「A woman is a woman is a woman」
を観てきて、かなり精神的にいっぱいいっぱいになってしまって、そりゃあもう、「ひとりでコーヒー飲みたい」って気分だったわけで。(sacred cityの皆さんすみませんでした。もうちょっと整えて行けばよかった。)
指輪ホテル、すごい良かった。なにか言いたいんだけど、なかなかまだ言葉にならないので、焦らずゆっくりとっておこうと思っている。

sacred cityでは、トーマスさんのパフォーマンスで、杖をもらいました。(あとで返しました 笑)
あまり考えずに選んだ結果、杖、というのは、なんだか自分の状態を表してるようでおかしかった。
持っていたら、みんなに心配されました 笑
だいぶ「杖によるコミュニケーション」が起きていたように思います。
杖を持つだけでこんなに人の見方って変わるのかと思いました。おもしろかった。

羊屋さん、忙しそうだけど会いたいなー
話したい

もうすこしわたしが

2011年2月15日火曜日

よくわからないけど書いてみた

なにか書かなきゃいけないことがあるような気がするんだけど、何かわからない。
岸井さんの近くで、岸井さん繋がりの人に会うときは、あまり、居心地の悪い気持ちになることがない。
聖良ちゃんと一緒の時も多分そう。
このところそういうことってなかったからちょっとエネルギー使ってしまって大変になっている。
岸井さんや聖良ちゃんというフィルターにかかっている人たちなわけだから、それは、きっと限定されてるんだと思う。
あとやっぱり、その瞬間、守られているんだと思う。
ひとみしりするし。

新しい人に会いたいと思う。
でもいつもいつも良いとは思えなくて。
滅多にないことだけど。あるんだと思うと、やっぱりじんわり嫌な気持ちになってしまう。
ひとりひとりと向き合いたいと思うのは、どんな人とも向き合おうとすることがやっぱり難しいからかもしれないと思う。
そのひとは私と向き合う必要がないからかもしれない、とも思う。

手に入れるより、手放す方が難しい。
手に入れてさらに継続するのも難しい。
できれば、続いて行くことにエネルギーを使いたい。
それでもたまには間違える。それはそれ。
間違いに気付いたら、正す勇気を持って、早め早めに整え直して歩こう。
あれこれ考えずに直感で。
最近、どこで勘を働かせれば良くてどこで頭を使えばいいか、少しわかってきた気がする。
けど気のせいかもしれない。

やっぱり岸井さんが好きなんだな、と思った。
岸井さんのことは、好きとか嫌いとかでは言い切れない部分が大きいけど。

4人で。

2/11
ワークショップのあと、公園で遊ぶメンバーと初打ち合わせ。
みんなすごく素敵なひとたちでした。
このメンバーで良かった、と思った。
私が20分くらい遅刻したのですが、その間にあいふぉん水没事件が起きいて、えらいこっちゃーという始まり方でした。
何かやれるようです。
私のわけ分からん話を聴いてくれてありがとう。
なんかすごい笑った。

「今自分たちが堂々と公園で遊ぶ」

■堂々公園
■遊びたい(公園で)
■公園遊覧

という三つの名前で検討中。

2011年2月8日火曜日

バスに揺られて

今日は、夕方から武蔵小金井にいって、マルゴーの場所をみて歩いてきた。
シャトーによったら、ほうほう堂が打ち合わせ中だった。
神村さんにも偶然会った。今日はヨガがあったらしい。
神村さんは岸井さんや手塚さんと今日から横浜でフィンランドのやつで取材してるって聞いてたので、その話しを少し。
ほんとは今日私も岸井さんに誘ってもらってたから、行けばよかったなぁ。
神村さんは今日から横浜通いらしい。
ヨガ教室に来てた人たちとも会って、一緒に駅まで行った。
話ができて良かった。

大体週6は西武バスに乗るのが私の日常。

2011年2月6日日曜日

わかるーと思うとき

「よくわかる」と思う人がいる。
それは、わかってるところもあるんだろうけど、それよりも「共感」してしまうことが原因だと思う。
体験が似通っていたり、問題とするところが似通っていたりして、共感してしまうんだろう。
普段は、だいたい、人のことなんてわからないと思っている。

共感してしまう人に対しては、客観性を欠いてしまって難しいと思う。
まぁ、客観性っていったって、私が思うことは私の主観でしかないけど。

ただ、他者としての意見が言えている場合とそうでない場合とは、共感しているかしていないかかもしれないなぁ、と思った。

2011年1月24日月曜日

気が滅入るとかそういうことか、、

最近のこの弱さはどうしたことだろうか。
なんだろう、“弱い”という表現が一番しっくりくる。
からだの奥の、中心に近いところにエネルギーが沈み込んでしまって、消えていくようで、そのせいで動いたり、喋ったり、外側へ発せられるはずのエネルギーが湧いてこない。
ひとりでいるとき、ひとりであるくとき、ひとりで何かを待っているとき、
ああ、だめだ。だめだ。
呼吸ができない、というより、息をする気力がわかないような、状態で、
体中から力が奪われて行くような感じ。
それであと悲しみが怖い
襲いかかってくるというより、いつも耳鳴りみたいに煩わしく悲しみが私の側にいる。
頭の中が、脳が、じわじわして、くちゃくちゃになっていて、居心地が悪い。
髪の毛、

手が、手は結構、元気かな。

そういえば、

はい。

2011年1月16日日曜日

だんだんと近づく日

ひとりぼっちで
どこにもいけない。

道が何本にも別れていて、
薄暗くて、
よくみえないし、
誰もみあたらないから、
迷子みたいになってて、
呼吸もうまく出来ない。

私は否定で文章を終わらせたくないのに、
私にそう喋れと言う人がいるみたい。

闇に蝶が飛んでいて、
なんとなくそっちなのかな、と思う。
少し視線をずらすとオレンジ色の風がさらさらと抜けていく。
ねぇ出てきて。
私、そっちに行きたい。

手を、指先だけ、引いてくれなくては
今は、立っている気力だけ、なんとか保っているだけで。
ほら足が、膝が、

手のひらの空気だけ妙に重たくて、あともう少しなのだけれど。
みぞおちから私じゃなくなっていく。

そういう日に。

2011年1月13日木曜日

鳥のこと

本の整理をしていて、小学校3、4年くらいのときにもらったポケット野鳥図鑑が出てきた。
この図鑑、すごく好きで、まだまだ手放したくない。
外を飛んでいる鳥が、何ていう鳥か、ということに使用したいわけではなくて、眺める、情報とともに鳥の写真を眺めるのがいい。
実際に鳥と対峙することは、そこまでいいと思わないのだけれど、(あ、でもカワセミみたときは結構よかったな。)鳥の構造とか、生態とか、そういう情報を含めたあの姿を、みたいのだと思う。
大学1、2年の時も、ライブラリーでなぜか野鳥百景みてたなぁ、と思った。
メモとったりして 笑
NHKとかで鳥の特集やってたりするとついみちゃう。
印象に残ってるのは、コンドルの子育て。
コンドルの夫婦が威嚇して羽を広げてる映像がすごく良かった。

きっと、空への憧れはある。
いつもいつも上ばかりみて歩いている。
あるいはみないように、下を向いてしまう。

なんで鳥なんだろう。
ほかの動物でなくて。
ほかの動物の生態を知るのも好きだけど、特に鳥が気になる。
鳥が「飛べるから」とか、そういう単純な理由ではない気がする。

灰羽連盟が観たいかもしれない。

2011年1月7日金曜日

色の思い出**

延々と遠回り。
高層ビル、忙しなく倒れて。
今日もここに。
喜べないなら嘘を言って。
嫌い。来て。

明日のこの場所にいるの。
鳥?
知らない知らない。
誰。?
、重い。
煌々と照らされている頬に。
髪。
知らない。
行けない。
声。

きぃん

・・・、

こどもの呼吸。眠り。
ゆうべのシチュウ。
思い出せない。

2011年1月4日火曜日

2011

勘とか、
好きとか、嫌いとか、
感じることを、

もっと信じる。

恐る恐る進む。

期待せず、希望を携えて、静かに。

いつもわたし。

2010年12月13日月曜日

色の思い出

延々と、遠回り。
高層ビル、忙しなく、倒れて。
今日もここに。
喜べないなら、嘘を言って。
嫌い。来て。

明日の、この場所に、いるの。
鳥。
知らない知らない。
誰。
、重い。
煌々と、照らされている、頬に。
髪。
知らない。
行けない、声。

きぃん

きぃん

こどもの呼吸
眠り。
ゆうべはシチュウを食べたのだった。

2010年12月12日日曜日

実験ツイートまとめ

12/8
最後、あなたが、さいご、言って、そのことだけ、忘れていない。でも、そういう、あなたの、そういうふうな、夢、そうは、言っていない。

12/10
いつものとおり、想像できずに、遠くの景色を、耳があって、喜ばずに、ただ、実に美しい、政治的思惑の中で、じっと佇んでいるのは、どうしようもなく、手を、返して。帰れない。

12/11
嘘を言って、どうにもならない、とばっちりばかりを、チョコレート、品川まで。呼んでないよ、よんでないよ、ココア、そろそろ気付いて、雨さえ降っていない。

あなたがそう言った。ただ夢のように。いつもいつも、わからないばかりで、何も言えずにいたのに、そうやって追いつめられていくばかりの闇を知るはずもなく、ただこうしていて。なにも、応えてはくれないけれど、言葉が氾濫していた。ただ、その時みたいに。

梅、急におもしろくもない、算段だけ、冷たい空気に圧されて、昨日のことをわかりもせずに、あれはね、あれはね、と、曇り空を指している。もう、どこにもいかない。そうして、どこにもいかない。

名前を思い出せない。この先、出会えるかもわからないのに、枯葉を思い出のように、扱うのは、光が金色をしているせいでしょう。ゴムボール、音を止めて、でこぼこした三輪車、ひざを擦りむいた。

物語を捨てて、飛べない鳥のために、車を、歌を、死なない程度に寝そべって、川に忍び込む、いらないいらない、君の肌。

沿道、困ったな、また海に、みえない、星?、耳の裏、くださいな、本当。言って言って、ここにいるわ、焼けそう、白い、ざらり、ざらり、ざらり。

今日、病、方々、一人でも大丈夫、愛しているさ、困難、いつでも、落ちてくる、線形の空。ひよこ。私に、メイド姿の、にらみつけないで、空、抑えて、黙っていて。


2010年12月9日木曜日

昨日、やっぱり悲しかったから

ショックだった。
思ったよりも、そうだったのだろう。

見捨てないで。
見捨てない、と信じているけれど、そう思ってしまった。

悲しくなってしまった。

東京は、悲しい。

私はここに、いたい。
ここを捨ててどこかへ行くことは、大切な人たちの人生を、その先の世代を、みないようにすることだと思うから。

ただ、私にここ以外の生活が、実感できないのも事実だ。
比較とかじゃない、私には、生まれ育った場所で展開している人生達だけがみえているというだけのことかもしれない。

友達の多くが団地やマンションに住んでいる。
戸建ては似たような新築。

問題は、もしかしたら、ずっと東京にいる人ではない人たちが一緒にみている「東京」という夢かもしれない。
東京のような生き方。

私の親戚たちが、わりと近くに住んでいるのは、そういう「東京」に呑まれてしまわないように、助け合うためかもしれない。
地縁が、信じられるほど強くない分、血縁は繋いでおこうとする気持ちか。

私はいま、祖母がひとりしかいない。
祖父は小2、小4(?)ころに他界。二人とも癌。病院で亡くなっている。
祖母は大学2年のころに他界。胃ガン。病院で亡くなっている。

生きている祖母は、伯父の家族と同居しているが、とても元気で、遠い親戚の看病をしにいったり合唱団にいったりと忙しくしている。

ああ、そうか、誰も確かにほとんど介護などが必要なく、困っていなかった、けれど、やっぱり親戚のなかで、誰かが引き受けて、ずっと一緒にいるように、していたのだろう。
そうやって、助け合うことができるような関係づくりがしてあったんだろう。

「その家族が困るだけ」

それができる家族はいい。
ただ、そういう実際に起こる問題だけじゃなくて、その根底に潜む都会の人たちの考え方や心理、それを植え付けているなにかのイデオロギーがある。それが私は怖い。

姉は平気で言う。
「お金は出す」と。

本気でそう、思っているかはわからない。
でも姉ならやりかねないと、思う。

私はお金も出せないし、なにも、言えないのだけれど。

父方の親戚たちが、心に余裕があって、人に手をかしたり、祖母が遠い親戚の看病に行けたりするのも、やっぱり、お金に余裕があったから、なんだろうなぁ。

でも本当は、なにがなくても人のことを思いやって生きていたいと思うのだけど。そういう人たちだと、思うのだけれど。

社会はそう、なっていないよね。たぶん。

2010年12月6日月曜日

。。

「それは消えないよ」
「それは橘花さんだけ、だけかわかんないけど、だよー」
「ことばをいきおいとしてつかいたい」
「ファンタジー(私が)」

最近聞いた、気になることばたち。


書いてみた

避難のこと。

私がまわったのは、
原宿、池袋、目黒、田端、大塚、新宿、代々木、神田、品川、という感じ。

他のところのウワサもいろいろ聞きましたが。
あと、連れて行ってもらっちゃったので、(御徒町)という感じ。
ホームレス礼拝は行っていないので、みたものは違うでしょう。

F/Tでつぶやかれてた高山さんのお話で、
宗教とコミュニティと民間宗教のようなものをテーマにしているということを目にしたような気がします。

確かに、コミュニティまんまなスペースとか、まんま宗教施設とか、占いとかスピリチュアルとか、まんまでした。

全部みたわけじゃないし、どうだとも言い難いですが、
私がみたかぎり、そうでした。

で、神田では、たくさんの避難民達に会って、その共有されている感によって、つながりあっている人たちがコミュニティっぽいものをつくっていた。
一番初めから感じていたのは、踊らされている感じ。
「RPGみたい」という感想をちょこちょこ耳にしましたが、まさにそうなのだと思う。
確かに、フラグが立って、目的地到着、クリアみたいな感じがあるっていうことを指していっているんだと思うし、そういう面白みはあった。
だけど同時に、自分にコントローラーをつけられていて、誰かによって動かされている、操作されているような感覚が、否めなかった。
途中、本当に「なんでこんなことさせられなきゃいけないんだ」と思った。
やらなきゃいいんだけど 笑
でも、なにか面白そうだ、と思ってやらされている自分がいて、それがなんか違和感を生んでたと思う。

宗教の扱い方はもう少し考えたほうがいいと思った。
つくっている方がどう考えてるのかわからなかったぶん、なんともいえない、つまり、私たちが感じたように感じて考えろみたいなつくりなのだと思ったけれど、それによって何も言えない状態になってる気がした。
スペースに踏み入って行くこと、そういうものを身勝手に人に突きつけること、宗教を俯瞰しているような立場をとっている、あるいは中庸のような立場をとっていること、などが、とても暴力的に感じた。
自覚的でない、関係のない人たちを巻き込むやり方をする人たちにとって、「利用している」という状態にならないようにすることは、いつも課題になっているとは思う。
どうバランスをとるか、考えているだろう、とは思う。

神田で、この「避難」ということ自体が、宗教のようなコミュニティを形作るものになっていると感じた。
これは、本当にすごいと思った。しかし、こんなやり方は、私は嫌だと思った。
人に、結局なにも気付かせないのは、ずるいし、身勝手だと。
ひねくれてるのかな。

宗教は強いから、観客へのフォローだって必要じゃないかなぁ。
というか、きっとそういう意味で敏感な人は避難にはあまりハマらなかったかもしれない。
ある種、図々しくなかったら参加できない気がするし、いちいち微細に感じ取っていたら身が持たない気がする。
まぁ、そういうものの処理がうまい人たちなのかもしれないけど。

全体として、とても面白かったけど、
作り手の身勝手さを感じた、というところです。

アーティストなんて身勝手なものだ、という考えもあると思うし、身勝手さが悪いとも思わないけれど、身勝手を身勝手でよしとしない、それをどうにかしてバランスをとろうとしている人たちが私は好きだなぁ。

portBはどうだったんだろう。
そこでも頑張ってたのかなぁ。わからない。

先述した、避難全体で「踊らされてる」感じは、扱われてた村上春樹の小説にも感じていたことで、すごく似ていると思った。
村上春樹の小説は、おもしろくて「読まされてしまう」という感じ。
それが私は嫌いで嫌いで、村上春樹が出てきた時はもう、テンション下がったわー 笑
でもちょっと、読んでみようという気にはなった。
というより、読んでおこう、かな。

やっぱり、ひねくれてるのかしらね。

2010年11月19日金曜日

どこに、どうやって立っているか。

きのう、授業で、「日本のダンスは幼稚化してる」んじゃないか、と言われて、
私は、そういうのわからないから、わからないと言っておいたんだけど、
なんかこう、腑に落ちないっていうか、納得いかない感じがしていて、
それはなんだろなーって、考えてた。

そもそも、先生は、何をみて、そのどんなところをそう思ったのか、わからなかった。
しかし、それを聞いたところで、私にはわからないし、そうなんだーとしか言いようがない。
私がみてきたものから判断してどうか、だとしても、それは問題ではない気がして、一部ではあるんだけど、そういう評価は違う気がして、その場では、応えられなかった。

「バレエとか、ダンスの基礎とか、そういうものが(海外と比べて?)ちゃんとしていないと思う」だそう。
私自身、そんなに海外とか、まーヨーロッパとか?そういうところのダンスをよく知らない、みたことないっていうのもあるんだと思う。
でも、なんかそうやって比較して、優劣っていうか、そこでの優劣って違うんじゃないかなって思って。
いや、それは多分私の価値観なのかもしれないんだけど。

「「鍛えられた権威的な身体」に対して「だらしない身体」を撮影するという作品もあったけど、それを越えた今、そういう鍛錬されていない体での表現はどうなのか」、とかいう話もでたけど、なんかそういうことじゃないなーと思って。

「権威的」っていうのは、そういう体系を踏まえてそうじゃなきゃダメ!っていう態度がそうさせてると思う。もちろんそれに対する批判的な態度を表すのもおもしろいとおもうけど、そうじゃなくて。

たぶん、あまりにクリティカルなものにも抵抗があるんだと思う。
そういう態度が好きじゃないのかなぁ。

じゃぁなにがいいんさーとか思ったり。。

でも、ちょっと思ったのは、「幼稚化してる」んじゃなくて、無意識でも意識的でも、大人になるのを「拒否してる」んじゃないのかなって思った。

そういう「大人」ならならないよ、なれないし、なりたくもないよ、って。

でも、私たちも「大人」だよって。

まぁ私はなーんにもわかってないんだけど、そういう言い方って違うなって思ったのには何か思うところがあるんだろうなーとは感じていて。
私は、いったい、どういう視点で、ものをみているのか。

だって多分こういうことは、ダンスの話じゃなくても、いいはずで。

「こうじゃなきゃだめ!」ってのに抵抗があるんだろうねぇ。

でも、身体って興味あるなぁ。
わかる全ての感覚に興味があるな。
どこまでいけるか、感じられるのか。
そういう意味で、手塚さんの中央線インストラクションとか、すごくいい体験だったな。
気になる、体験だった。
どこかへ、いってしまう、とか、身体が交換される感じとか、集中することで、どこかが鋭敏になってどこかは全然感じなくなるとか。
うん。

あした、シャトーで世界装置の「おひさまとかいぶつ」をみる。

2010年11月16日火曜日

結構

いろいろ、思い出していたのは、忘れないようにという警告だろう。
私は、今の生活にどっぷり浸かってしまっているし、それはとてもうれしく、良いことだと感じている。
しかし、何を、やりたいか、ということは、変わっていない。
というか、それをもとに発展したはずなので、
その問題意識のようなものが、なにか、と考えると、やはり、
これまで私がみてきたものの中に、なにかがあるはず。

いま、まわりにいる人たちは、ある程度、自分のやりたいようにやれているな、そういう方向に自分で行こうとしているな、と思うので、それでいいと思う。
そうじゃない人のことを、考えたくて、
そうじゃない人が、今、どうなっているかも考えたくて、
それで、かつてのことがたくさん思い出されていたのだろう。

わすれるな、わすれるな、と言われている。

ただ、そのときの私にひっぱられて、今を正しくみれなくなってはいけない。

吸い込む量と吐く量とは均等に。

そのころに如実に感じていたことを忘れてしまって歩いていっても、なにもないだろう。
納得がいかないだろう。
でも、囚われずに。
大事なことを、見つけるだけでいい、あるか、ないか(あるんだけど)を知るだけでいい。
いい。

2010年11月13日土曜日

・・・・・・・・・・

なにかを願ったり、なにかを祈ったりして、
ただ、そういうもののようにあって、
そのままでいれて。
そのとき、あなたのひとりきりの眠りを思う。

ただそこに、可能性だけをのこして。

じわり、じわりと近づく。
黙ったまま、その傍らに、横たわる。

すぅっと。
すべりだす。

意識。
呼吸と鼓動を感じる。
その体温を感じる。
血液が走るのを知る。

ただ、夢を遠くに信じて。
離れていく。
ここにいる。

目を開いて。あなたはなにを見るの。
光を受けて。なにが聞こえているの。
黙って。

黙って。