2011年8月25日木曜日

私はわりと前から亀は知ってるんじゃないか、とか、
亀はなんかこう、かなわないな、という感じがあって、
何か違う良い道理とか、そういうのを持っている気がして、亀のことを考えたりする。

昔友人に、「もしこれから亀として生きなくちゃいけなくなったらどうする?すごい長生きしなきゃいけないなら辛い気がする。」という話題をだされて、
「でもきっと、ほんとに亀になるなら、亀としての一生、亀としての寿命、時間、になるから、いまの私みたいな人間としての時間で生きるならまた別だけど、多分亀に身体もなるなら感覚も亀だから、たぶんそんなにいま以上苦しいとかじゃなくて、いまと同じくらいの一生なんだと思う」
みたいなことを話したことがある。

それは結構前から思っていて、たとえばそれは、セミが成虫になってから一週間しか生きられないからといって、その短さに人間の時間を当てはめてかわいそがるっていうのは(感情としてはわかるけど)違っていて、たぶんセミとしてはそれこそ土の中にいるっていうのだって一生の一部で、一生の長さも考え方も時間感覚も動きも違うんだから、それはそれでそういうものであるはずだなぁとか、思う。
でもとりあえず、セミはこの文には関係ない。
気になっていて重要なのは亀のことである。

うちで偶然発見された『エンデのメモ箱を』ぱらぱらめくっていたら、「亀」というメモが載っていた。
まさかエンデも亀のことを考えていると思わなくて、おどろいた。
たしかにエンデの作品には亀がよくでてくる。
亀についての考察が、私が考えたいこととわりと一致していて、自分でもぞもぞ調べる手間が少しだけ省けたような気がした。いや、単純に、同じことを考えてくれている人がいて、嬉しかった。

「四、その顔。あなたは向き合って亀の顔を見つめたことがあるだろうか。亀は微笑んでいる。わたしたちが知らないことを、亀は知っているように見える。」
「亀ではこの頭蓋は閉じられている。思考する自我は自己のもとにあり、自覚される。言い換えれば、“亀は自分の小さな時間を自分のなかに持っている”」
(ミヒャエル・エンデ『エンデのメモ箱』)

私が亀のことを強くそう感じるようになったのは、水族館でガラス越しに、水底近くに浮かんでじっとしているウミガメの目をみたときで、話ができそうな気がしたけれど、「うっ」となってしまって、見透かされているようなというとちょっと違うのだけれど、私の知っている道理と違う時間に引き込まれそうな、そういう感覚になって、すこし自分が危うくなりそうなこわい感覚になった。
同じ水族館に、生まれてすぐの子亀の水槽もあって、あかちゃんの手のひらくらいのサイズのやつが十数匹ぷっかぷっか浮かんでちょこちょこ泳ぎ回っていた。
亀はやっぱりすごく目が良いらしくて、水面にじっと顔を寄せて見にいくと、その子亀たちがわいわい寄ってくる。じっとみると、目が合う。こちらを見ている。
大きなウミガメと同じ目だった。ずっと見ていたら、危ない。

亀、時間。

亀吉くん(コジコジの)の必殺技「亀の思い出」なんかも、ゆかいだけどぞっとする。

亀の思い出、竜宮城へなんか、行かない。

2011年8月15日月曜日

書けません

書き物がひとつ、上げられないでいるので、
blogに書いておきたいことは諸々あるのだけれど、
控えている。
書きたい。
流れていってしまうのは少し、心もとない。
とても良いリズムで、掃除と洗濯と食事をしていて。
あとは読書にキーボードをたたいていて。
満ち足りていて、心なしかさみしい。