2012/01/27 ツイートの一部
そして自分をも皮肉らなければならない。
わたしはお茶を入れましょう。
もういちど、何度でも、愛情にならなければ。そして世の中は捻じれている。
なぜあのとき鶴を折ったのかわかった。鶴を折ることは祈りだと、すり込まれている。普通は祈るように鶴を折ることはない。(学校などで千羽鶴を折らされても、そこに祈りはない。)ただ祈りの形として教えられている。自分にとってその祈りが必要になったとき、選ぶことができるひとつの形式である。
そして自分のためばかりではない嘆きや哀しみのために。
ひとつの形式ではある。 でも鶴を折れない人もたくさんいるし、鶴を折ることが(特に平和への)祈りの象徴のように伝えられているとしても、選べるひとつの祈りの形式として持っているのは日本人だからとかでなく、私個人の因縁かもしれない。