2010年12月9日木曜日

昨日、やっぱり悲しかったから

ショックだった。
思ったよりも、そうだったのだろう。

見捨てないで。
見捨てない、と信じているけれど、そう思ってしまった。

悲しくなってしまった。

東京は、悲しい。

私はここに、いたい。
ここを捨ててどこかへ行くことは、大切な人たちの人生を、その先の世代を、みないようにすることだと思うから。

ただ、私にここ以外の生活が、実感できないのも事実だ。
比較とかじゃない、私には、生まれ育った場所で展開している人生達だけがみえているというだけのことかもしれない。

友達の多くが団地やマンションに住んでいる。
戸建ては似たような新築。

問題は、もしかしたら、ずっと東京にいる人ではない人たちが一緒にみている「東京」という夢かもしれない。
東京のような生き方。

私の親戚たちが、わりと近くに住んでいるのは、そういう「東京」に呑まれてしまわないように、助け合うためかもしれない。
地縁が、信じられるほど強くない分、血縁は繋いでおこうとする気持ちか。

私はいま、祖母がひとりしかいない。
祖父は小2、小4(?)ころに他界。二人とも癌。病院で亡くなっている。
祖母は大学2年のころに他界。胃ガン。病院で亡くなっている。

生きている祖母は、伯父の家族と同居しているが、とても元気で、遠い親戚の看病をしにいったり合唱団にいったりと忙しくしている。

ああ、そうか、誰も確かにほとんど介護などが必要なく、困っていなかった、けれど、やっぱり親戚のなかで、誰かが引き受けて、ずっと一緒にいるように、していたのだろう。
そうやって、助け合うことができるような関係づくりがしてあったんだろう。

「その家族が困るだけ」

それができる家族はいい。
ただ、そういう実際に起こる問題だけじゃなくて、その根底に潜む都会の人たちの考え方や心理、それを植え付けているなにかのイデオロギーがある。それが私は怖い。

姉は平気で言う。
「お金は出す」と。

本気でそう、思っているかはわからない。
でも姉ならやりかねないと、思う。

私はお金も出せないし、なにも、言えないのだけれど。

父方の親戚たちが、心に余裕があって、人に手をかしたり、祖母が遠い親戚の看病に行けたりするのも、やっぱり、お金に余裕があったから、なんだろうなぁ。

でも本当は、なにがなくても人のことを思いやって生きていたいと思うのだけど。そういう人たちだと、思うのだけれど。

社会はそう、なっていないよね。たぶん。

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