2010年12月6日月曜日

書いてみた

避難のこと。

私がまわったのは、
原宿、池袋、目黒、田端、大塚、新宿、代々木、神田、品川、という感じ。

他のところのウワサもいろいろ聞きましたが。
あと、連れて行ってもらっちゃったので、(御徒町)という感じ。
ホームレス礼拝は行っていないので、みたものは違うでしょう。

F/Tでつぶやかれてた高山さんのお話で、
宗教とコミュニティと民間宗教のようなものをテーマにしているということを目にしたような気がします。

確かに、コミュニティまんまなスペースとか、まんま宗教施設とか、占いとかスピリチュアルとか、まんまでした。

全部みたわけじゃないし、どうだとも言い難いですが、
私がみたかぎり、そうでした。

で、神田では、たくさんの避難民達に会って、その共有されている感によって、つながりあっている人たちがコミュニティっぽいものをつくっていた。
一番初めから感じていたのは、踊らされている感じ。
「RPGみたい」という感想をちょこちょこ耳にしましたが、まさにそうなのだと思う。
確かに、フラグが立って、目的地到着、クリアみたいな感じがあるっていうことを指していっているんだと思うし、そういう面白みはあった。
だけど同時に、自分にコントローラーをつけられていて、誰かによって動かされている、操作されているような感覚が、否めなかった。
途中、本当に「なんでこんなことさせられなきゃいけないんだ」と思った。
やらなきゃいいんだけど 笑
でも、なにか面白そうだ、と思ってやらされている自分がいて、それがなんか違和感を生んでたと思う。

宗教の扱い方はもう少し考えたほうがいいと思った。
つくっている方がどう考えてるのかわからなかったぶん、なんともいえない、つまり、私たちが感じたように感じて考えろみたいなつくりなのだと思ったけれど、それによって何も言えない状態になってる気がした。
スペースに踏み入って行くこと、そういうものを身勝手に人に突きつけること、宗教を俯瞰しているような立場をとっている、あるいは中庸のような立場をとっていること、などが、とても暴力的に感じた。
自覚的でない、関係のない人たちを巻き込むやり方をする人たちにとって、「利用している」という状態にならないようにすることは、いつも課題になっているとは思う。
どうバランスをとるか、考えているだろう、とは思う。

神田で、この「避難」ということ自体が、宗教のようなコミュニティを形作るものになっていると感じた。
これは、本当にすごいと思った。しかし、こんなやり方は、私は嫌だと思った。
人に、結局なにも気付かせないのは、ずるいし、身勝手だと。
ひねくれてるのかな。

宗教は強いから、観客へのフォローだって必要じゃないかなぁ。
というか、きっとそういう意味で敏感な人は避難にはあまりハマらなかったかもしれない。
ある種、図々しくなかったら参加できない気がするし、いちいち微細に感じ取っていたら身が持たない気がする。
まぁ、そういうものの処理がうまい人たちなのかもしれないけど。

全体として、とても面白かったけど、
作り手の身勝手さを感じた、というところです。

アーティストなんて身勝手なものだ、という考えもあると思うし、身勝手さが悪いとも思わないけれど、身勝手を身勝手でよしとしない、それをどうにかしてバランスをとろうとしている人たちが私は好きだなぁ。

portBはどうだったんだろう。
そこでも頑張ってたのかなぁ。わからない。

先述した、避難全体で「踊らされてる」感じは、扱われてた村上春樹の小説にも感じていたことで、すごく似ていると思った。
村上春樹の小説は、おもしろくて「読まされてしまう」という感じ。
それが私は嫌いで嫌いで、村上春樹が出てきた時はもう、テンション下がったわー 笑
でもちょっと、読んでみようという気にはなった。
というより、読んでおこう、かな。

やっぱり、ひねくれてるのかしらね。

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