2012年6月14日木曜日

食事のことをぽつぽつ考える


うちには、家事専従者がいない。そういう家庭は増えているんだろうか。パートで週の何回か、数時間働いているという主婦のひとは多いかもしれない。

ヨシケイとかタイヘイとか(うちはヨシケイですが)メニューが決まっていて、食材が宅配で届くサービスは、家庭の食卓の文化まで浸蝕しているかと思うとぞっとすることこの上ないが、日々のメニューと食材調達の手間が省けていることで、正直、うちは回っている。母が働きだしたのはたしか私が高校2年生のときからで、そのころからうちは宅配サービスを使いはじめた。一時期は全部冷凍であたためるだけのコースのこともあったが、さすがに今はそれはなくなった。おいしくないから。
といったって、食材から作るにしても、そうおいしいわけじゃない。ただ日々食事はしなきゃいけなくて、毎日のように外食してても、それはそれで飽きがくるし、お金もかかりすぎる。どうでもいい外食産業にそんなにはお金を落としたくない。(まぁ私が払ってるわけじゃないけど。)
因みに、こういった宅配サービスの存在すら知らない人もいるかもしれない。高校のとき、大学のとき、友達と話していると、共働きの家の子は「うちもだよ」と当たり前のように知っているのに対して、そうでない子は「え、そんなのあるの、すごいね」とか「ああ、共働きだからってそれ使ってるって友達いたー」とか、そういう反応だった。大人たちはどうかわからないけど、やっぱり必要のない人は知らないんだろうな。

私はいわゆる「家庭の味」みたいなものがなくなることも確かに恐ろしくは感じていたけれど、なにかそれ以上の、大切なものを失っている(奪われている)ような感覚を持っていた。だからといって、この家の「日々の生命を繋ぐ料理」を取り返すことももはやできない。

この興味ではなくて読んでいた鷲田清一の文章にこんなことが書いてあった。

“さて、人間の筋肉や脳の作業が別のものにとって代わられたように、コンビニやファーストフード・ショップによって、いまや調理という作業と能力も代行される傾向にある。かつてのレストランのようにハレの日にではなくて、まさに日常的にである。台所を外在化すること、これはしかし想像以上に危ういことではないだろうか。
というのも、調理をするという行為は、排泄物の処理とならんで、人間がじぶんが生き物であることを思い知らされる数少ない機会だからである。”p141

“そういう意味で、調理は、自然との接点として家庭内に残されていた最後のいとなみだったのである。この調理過程までが外部化するというのは、わたしたち人間の現実感覚にとって、何か決定的な変化を意味するようにおもえてならない。
いのちがどくどくと律動していること、じぶんが生きるために他の生命をくりかえし破壊しているということ、そのとき他の生命は渾身の力をふりしぼって抗うということ、ひとは一つの作業を分けあい、そうしてその生存のために助けあうものであること、じぶんという存在がまぎれもない物そのものであり、生まれもすれば壊れもする、消滅もするということ......そういうことのからだごとの体験がことごとく削除されるとしたら、わたしたちの現実感覚、もしくは<現実性の係数>そのものが、根底から変化してしまうのではないだろうか。その変容した新たな<現実性の係数>に、わたしたちの感覚ははたして耐えうるのかどうか。”P144-145

(鷲田清一(1996)『だれのための仕事―労働VS余暇を超えて』岩波書店)

うちの頼んでいる宅配サービスは「食材のセットが送られて来て、レシピに通りに調理する」というスタイルで、「調理」という行為そのものは家のなかで行われているのだが、それが果たして、「人間がじぶんが生き物であることを思い知らされる数少ない機会」と成りえているのだろうか。どこか気持ち悪いのはなぜだろう。
現時点で私にわかることは、このスタイルだと、「欲するのではなく与えられる」あるいは、「欲する前に与えられる」という感じがするということだ。いくら調理という行為が「じぶんが生きるために他の生命をくりかえし破壊している」ことと対峙するものだとしても、生きるために食べたいと思うという「欲する」の部分が抜け落ちてしまえば、「生きるために」と自覚することがほとんどなくなってしまい、「自分が生き物であること」を思い知る機会には成りえないのではないか。
ふと、椎名林檎の「凡才肌」という曲に「お腹が空いて考える、さあ何を犠牲に満たそう」という歌詞があるのを思い出した。あくまでも「お腹が空いて」から「何を犠牲に」するかを考える。その瞬間というのは、「食べたい」というある意味凶暴ともいえる欲望を抱いていると感じることで、自分が食べて命を繋いでいる生き物だと感じるときだろう。この欲する過程が失われることもまた、調理過程が失われることと同様の危うさを持っているのではないか。
そうはいっても、家族の食事というものは、必要に迫られて毎日用意するものであって、必ずしも欲してつくるわけじゃないだろう。

“家事労働のしんどさというのは、ひとつには、それが目的の実現というリニアなプロセスを描きにくい、はてしない反復のいとなみだという点にある。”P138(同掲書)

家族の食事をつくることは、このような、家事労働のはてしなさを負っている。(ただ、私はこの果てしないくり返しというのは「生きているということ」そのものであるような気がして、しんどいに違いはないが、「生命維持のために」という明確な労働であるため、なんのためにしているのかわからない労働のしんどさとは違った真っ当なものだと思う。)欲すると欲さずとに関わらず、「家族の食事の用意を担う人」は家族が腹を空かせるであろう時間に食事を用意しなければならないし、他の者は欲さずとも用意がされる。ここで、欲望はお互いの関係の中に沈み込み、「互いの存在のため」に食事が作られるようになる。

“...(略)ごはんを作ってもらうというのは、大げさにではなく、<存在の世話>をしてもらうというところがある。他人に何かを「してもらう」という経験のコアとでもいうべきものだ。
料理は「ふつう、ひとびとが考えているよりも、ずっと空恐ろしい重さをもつものだ」。そう吉本(引用者注:吉本隆明。「わたしが料理を作るとき」(『背景の記憶』宝島社1994)を引用)はいう。その彼が料理の基準としてあげるのは、それが日常のくりかえしに耐えうるかどうかというものだ。したいからするのではなく、したかろうがしたくなかろうが、とにかくはてしもなく繰り返すことを余儀なくされる作業。わたしたちの思考がそれに拮抗できるだけの重量をもちえないとき、それは文字どおり遊びでしかないというわけであろう。”P139(同掲書)

私が家庭の味が失われる以上になにか恐ろしく感じていることとは、
「家のなかにそういった存在である人がいなくなること」
かもしれない。

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