2011年9月19日月曜日

7/30-31

7/30(土)
夕方から、住中カーに乗せてもらって舞鶴へ。
住中さん、あいこちゃん、せーら、わたしというメンバーで。
あいこちゃんは免許失効中、せーらとわたしは免許なし。
ということで、WS明けの住中さんに延々運転をしてもらうことになってしまいました。。
少し寝れたし、楽しい道中でした。
住中さんが車でお休み中、パーキングエリアのテラスでおないどし女三人の結構深いトークが一時間半くらい繰り広げられました。
誰もみる人のいないトークイベントでした 笑
あとパフューム踊るグループできた。

7/31(日)
早朝、舞鶴に到着。
森さんちに少し泊めてもらう。
喫茶店で、別ルートで来ていた、冠&羽鳥、岸井、と合流。
北本さん、えりちゃん、たちとも合流。
それから、赤煉瓦記念館?へ。ここで大阪組も合流。
糸井さんと再会!蛇谷さんと初対面!わーい
赤煉瓦をみて、ヤシマアートセンターへ。
そこからお昼。田中さん?だったっけ、案内してくれる。
そのあと、小さな漁村へ。
神社の隅のほう、セミの音が他の音を消して、世界、次元を間違えたみたいになった。
畑、トケイソウ。
海。フナムシ。
赤いタイルの灯台、コーラ。
私はわがままだとおもう。
花火大会。
展望台から花火をみる。
お祭りに戻る。屋台〜
花火のラスト、連発で煙がかかってほとんどみえなくなっていたのが残念。
宿泊先に帰って、宴会。
先にお風呂に入る。
ビールうまい、ビールうまい、ビールうまい。
せいらが大阪から戻ってくる。
蛇谷さん、虫さされや打撲みたいなのがいっぱいで、山で遊んでいる子どものよう。
機嫌が良い。
羽鳥くんに「なににやにやしてんの」と言われる。ががーん
あいこちゃんは結構序盤にがんがん寝だした。
ごろごろしながら飲んだりして、楽しかった。いつもわりとごろごろしながら飲みたいなーとは思う。
夜、眠れない。みんなよく寝てた。それは、とても嬉しかった。美しかった。
名古屋のレポートのことが気がかりでしょうがない。
ずっとそのことを考えていたのだけど、結局わからなかった。

2011年9月18日日曜日

7/14-7/29

7/14(木)
何か書いたりしていたようだ。
バイト行った。

7/15(金)
レポート終わらないみたい。
確か親が出かけていたような気がする。
小学生の国語の教科書を少し読む。重松清の家族の描き方には少し気になるところあり。

7/16(土)
LwP浅草でのミマキング診療所に行く。
興味深い結果。
そのあと、余白散歩。
この日は、N氏とH氏が参加してくれた日。

7/17(日)
部屋を思い切り掃除していたような気がする。
たくさん捨てた。服もだいぶ捨てた。
去年の授業の資料も捨てた 笑

7/18(月)
机を違うものと交換、ベッドの位置を変える、本棚の位置も変える。
一人で家具を動かしまくった。良くできるなぁと自分に驚きながら。

7/19(火)
多分学校休んだろう。
秋葉原ネットワークの会議も欠席した。

7/20(水)
プレゼン準備とか、考えごと。

7/21(木)
レジュメ終わらず。ネットをうろうろ。考えごとぐるぐる。
3DSのゼルダ時のオカリナをちょこちょこやっている。

7/22(金)
修論プレゼン前日。焦る。

7/23(土)
プレゼン。
なにがしたいのかわからないと言われる。なんでやねん。
終わってからシャトマル研究会に参加。
武蔵小金井へ。フロンティア→ジョナ。駅周辺は小金井阿波踊りとかいう祭りで賑わっていた。

7/24(日)
手帳にはなぜか時間だけがいくつか書き込まれているけど、たぶん家にいたような気がする。

7/25(月)
昼 岸井、羽鳥、新宿で記録MTG。この日もまだ3DSでゼルダをやっていた。ハイラル湖のところの神殿だったけど、水位を変えながら進むダンジョンが結構難しくて大変だった。
昔64でやったときも大変だったんだよねーと思った。
それからバイト。
(今みたら、この日のツイートは朝に「まにあわない!」というひとことだけだったw)

7/26(火)
朝から映画がみたいなーと思って、つぶやいたら、羊屋さんに蜂蜜をすすめてもらったので、
夜にみにいった。
良かった。
銀座でなぜかナンパにあってウケた。

7/27(水)
余白散歩。
UDXの裏で遊んでたら、警備に声をかけられる。
大丈夫ですか?ときかれ、頭のおかしいひとかと思ってしまうので、と言われる。大丈夫ですよ、とこたえる。でもどうしろとは言われなかったな。頭がおかしいと思われないようにしてくださいということなんだろうか。それってどうやったらわかるんだろう。黙って座っていても頭がおかしいひとはいくらでもいる。不思議じゃね。
一望監視。
公園に行くと、プールやってた。
この日は誰か来たんだっけ...?

7/28(木)
バイト

7/29(金)
旅行へ行ってしまうので、はやく名古屋のレポート書かなきゃと思うのだけど、全然書けずに終わる。
荷造りがすんでいない。学割もとっていない。あーあ


2011年9月16日金曜日

7/8-7/13

7/7から記録していないらしい。
もう随分前のことになってしまって、思い出すことは難しい。
手帳とtwitterを頼りに書けるとこだけ書いてみようと思う。

7/8(金)
取手に行ったらしい。
常磐線で河を渡る。
それから、余白散歩のミーティングで、どこだったか上井草とか武蔵関辺りの公民館に行く予定があって、まずはジョナで腹ごしらえしてから、公民館に行った。そこが畳の部屋で、ホワイトボードがあったりとか、将棋、囲碁があったりとかして、ごろごろしながら話した。
みんなよくわからないのに囲碁やった。

7/9(土)
家にいたと思う。だらだらしてたのかな。

7/10(日)
叔母のお母様のお焼香に行った。
小林家13人、集まった日。少しちゃんとした格好をしたら、おばさんにスタイルいいわね〜とめちゃめちゃ言われる。
そのあと、WWFesのかなよさんのトークで、一応子守りをしてくれといわれ、行った。
ああいうのは、難しいよね。
かなよさんがここちゃんを抱きながら、ここちゃんが泣いたりしながら話していることが、その一部だと思うから。それは、きっとそんなもろいものじゃないんだろうけど、やっぱりそこで私がシステマチックに、都合のためだけに、動くのは嫌だった。役に立つとはどういうことかな。こどもはおもしろい。
夕飯をかなよさんとここちゃん、岸井さんと食べながら、原発のはなしとかをきいた。

7/11(月)
学校、授業で発表。
バイトまでのあいだ、ランチ。
この日は国分寺でとったようだ。

7/12(火)
学校に行ったんだろう。
それからシャトーに行ったけど閉まってたみたい。

7/13(水)
どうやら家にいて、名古屋のレポートを書いてたみたい。
twitter上でラッコにハマっている。あれはヤバかったね。

2011年9月11日日曜日

とりあえずのむこうに続いていく日々のうえで、言葉。

一段落している。なにも終わっていないが。

好きな人たちのことを思う。
関わりがなくても遠くにいても考えが合わなくても好きな人たちのことを思う。
たくさんの好きな人たちのことを思う。

あのひとりひとりが、生きていけるように。
なるべく幸せと思って生きていけるように。
なるべく人を悲しませずに、傷つけずに生きていけるように。
優しい気持ちを持てるように。あらゆることに想い至るように。

嘘や偽り、清廉潔白でなくても、
きょうもまっすぐ。

2011年8月25日木曜日

私はわりと前から亀は知ってるんじゃないか、とか、
亀はなんかこう、かなわないな、という感じがあって、
何か違う良い道理とか、そういうのを持っている気がして、亀のことを考えたりする。

昔友人に、「もしこれから亀として生きなくちゃいけなくなったらどうする?すごい長生きしなきゃいけないなら辛い気がする。」という話題をだされて、
「でもきっと、ほんとに亀になるなら、亀としての一生、亀としての寿命、時間、になるから、いまの私みたいな人間としての時間で生きるならまた別だけど、多分亀に身体もなるなら感覚も亀だから、たぶんそんなにいま以上苦しいとかじゃなくて、いまと同じくらいの一生なんだと思う」
みたいなことを話したことがある。

それは結構前から思っていて、たとえばそれは、セミが成虫になってから一週間しか生きられないからといって、その短さに人間の時間を当てはめてかわいそがるっていうのは(感情としてはわかるけど)違っていて、たぶんセミとしてはそれこそ土の中にいるっていうのだって一生の一部で、一生の長さも考え方も時間感覚も動きも違うんだから、それはそれでそういうものであるはずだなぁとか、思う。
でもとりあえず、セミはこの文には関係ない。
気になっていて重要なのは亀のことである。

うちで偶然発見された『エンデのメモ箱を』ぱらぱらめくっていたら、「亀」というメモが載っていた。
まさかエンデも亀のことを考えていると思わなくて、おどろいた。
たしかにエンデの作品には亀がよくでてくる。
亀についての考察が、私が考えたいこととわりと一致していて、自分でもぞもぞ調べる手間が少しだけ省けたような気がした。いや、単純に、同じことを考えてくれている人がいて、嬉しかった。

「四、その顔。あなたは向き合って亀の顔を見つめたことがあるだろうか。亀は微笑んでいる。わたしたちが知らないことを、亀は知っているように見える。」
「亀ではこの頭蓋は閉じられている。思考する自我は自己のもとにあり、自覚される。言い換えれば、“亀は自分の小さな時間を自分のなかに持っている”」
(ミヒャエル・エンデ『エンデのメモ箱』)

私が亀のことを強くそう感じるようになったのは、水族館でガラス越しに、水底近くに浮かんでじっとしているウミガメの目をみたときで、話ができそうな気がしたけれど、「うっ」となってしまって、見透かされているようなというとちょっと違うのだけれど、私の知っている道理と違う時間に引き込まれそうな、そういう感覚になって、すこし自分が危うくなりそうなこわい感覚になった。
同じ水族館に、生まれてすぐの子亀の水槽もあって、あかちゃんの手のひらくらいのサイズのやつが十数匹ぷっかぷっか浮かんでちょこちょこ泳ぎ回っていた。
亀はやっぱりすごく目が良いらしくて、水面にじっと顔を寄せて見にいくと、その子亀たちがわいわい寄ってくる。じっとみると、目が合う。こちらを見ている。
大きなウミガメと同じ目だった。ずっと見ていたら、危ない。

亀、時間。

亀吉くん(コジコジの)の必殺技「亀の思い出」なんかも、ゆかいだけどぞっとする。

亀の思い出、竜宮城へなんか、行かない。

2011年8月15日月曜日

書けません

書き物がひとつ、上げられないでいるので、
blogに書いておきたいことは諸々あるのだけれど、
控えている。
書きたい。
流れていってしまうのは少し、心もとない。
とても良いリズムで、掃除と洗濯と食事をしていて。
あとは読書にキーボードをたたいていて。
満ち足りていて、心なしかさみしい。

2011年7月26日火曜日

思い出のないひとのお葬式(前半)

近しいひとを亡くす経験は、今のところ祖父母だけだ。
二人の祖父は、私が小学生の時に死んでしまって、最初は小学2年生のときで、死に目に立ち会っていたのだけれど、怖くて、病室を出た。
次は小4か小5のときで、死の間際ではなかったし、理解もできていたから大丈夫だった。
このとき小さかった従兄弟が「おじいちゃんとプラレールやるんだ」っていって聞かなかったのが、私に唯一あるプラレールの思い出だ。(従兄弟は祖父と同居していた)

大学1年か2年のときに祖母が亡くなって、本当の最期の最期には立ち会えなかったけれど、大学からそう遠くない病院に入院していたのを何度も見舞った。
病室で亡くなったあと、当時小2くらいだった従兄弟はやっぱり怖がって、へらへらしていた。顔に白い布がかかって、なんとなくわかっているのだけれど、「なんでなの、へんなの」と言っていた。

祖父のお葬式の記憶は、断片的にしかない。
母方の祖父のときはほとんど、覚えていない。
父方の祖父のときは、父方の家はいつもそうなのだが、嫁3人のコンビネーションがすごく良いという記憶がある。「おばあちゃん呼んできて」と言われて、祭壇のある部屋に行ったらおばあちゃんはひとりでいて、歌を歌っていた。それは、お葬式よりも葬送の意味を持った空間だったような気がする。

母方の祖母が他界したときには、私もいろいろ思い返すところがあって、ひとりで泣いたりもしたし、もう記憶以外では話せないことについて考えたりもした。遺体をそのままにはしておけないから、すぐに葬儀の算段が始まる。その様子に違和感を感じながら、親たちをじっと見ていたけれど、深すぎる悲しみについては感情がすこし静まるように、忙しくする、良い頃合いで悲しむ、少しずつわかっていく、また悲しむ、という緩急も必要で、葬式はそのために本当にちょうど良くできているとも思えた。葬式は生き残ったひとのためにあった。
このときは私も悼辞を詠んで、いつものように、内容を決めきらず思いつくままに、時間をかけて喋った。姉のやり方とは正反対だった。それは私が下の子で、決めきることをそこまで求められてこなかったからかもしれず、姉はこうやって大人の期待を乗り切ってきたのかもしれない、と思う。祖父のお葬式のとき、姉は小学生でも悼辞を詠まされるから、緊張していた記憶しかないと話していた。
私の悼辞があとから、すごく良かったと何人かから感想をもらった。それぞれの思い出に、触れるようにできたなら良かったと思う。気持ちがきちんと祖母の死に対してあったからこのやり方で上手くいくと思っていて、前日の夜、このことだけには確信していた。
いろいろなひとからお悔やみの言葉をいただくという経験も、多分このときが初めてで、私はお辞儀というものがそれまであまり得意ではなかったけれど、本当に心から「ありがとうございます」と思って、それ以上なにも返す言葉がないときは、あたまをきちっと下げられるものだと思った。とくに変でもないし、怖くもなかった。いくらお辞儀をしても、お気持ちに足りないから。

お葬式は、故人に思い出があって、知っている人たちがそれを話したり、ただだまって思い出したりしながら、食べたり飲んだりもして、故人とちゃんと死者として付き合う準備にみえた。

(後半に続く)