2011年7月26日火曜日

思い出のないひとのお葬式(前半)

近しいひとを亡くす経験は、今のところ祖父母だけだ。
二人の祖父は、私が小学生の時に死んでしまって、最初は小学2年生のときで、死に目に立ち会っていたのだけれど、怖くて、病室を出た。
次は小4か小5のときで、死の間際ではなかったし、理解もできていたから大丈夫だった。
このとき小さかった従兄弟が「おじいちゃんとプラレールやるんだ」っていって聞かなかったのが、私に唯一あるプラレールの思い出だ。(従兄弟は祖父と同居していた)

大学1年か2年のときに祖母が亡くなって、本当の最期の最期には立ち会えなかったけれど、大学からそう遠くない病院に入院していたのを何度も見舞った。
病室で亡くなったあと、当時小2くらいだった従兄弟はやっぱり怖がって、へらへらしていた。顔に白い布がかかって、なんとなくわかっているのだけれど、「なんでなの、へんなの」と言っていた。

祖父のお葬式の記憶は、断片的にしかない。
母方の祖父のときはほとんど、覚えていない。
父方の祖父のときは、父方の家はいつもそうなのだが、嫁3人のコンビネーションがすごく良いという記憶がある。「おばあちゃん呼んできて」と言われて、祭壇のある部屋に行ったらおばあちゃんはひとりでいて、歌を歌っていた。それは、お葬式よりも葬送の意味を持った空間だったような気がする。

母方の祖母が他界したときには、私もいろいろ思い返すところがあって、ひとりで泣いたりもしたし、もう記憶以外では話せないことについて考えたりもした。遺体をそのままにはしておけないから、すぐに葬儀の算段が始まる。その様子に違和感を感じながら、親たちをじっと見ていたけれど、深すぎる悲しみについては感情がすこし静まるように、忙しくする、良い頃合いで悲しむ、少しずつわかっていく、また悲しむ、という緩急も必要で、葬式はそのために本当にちょうど良くできているとも思えた。葬式は生き残ったひとのためにあった。
このときは私も悼辞を詠んで、いつものように、内容を決めきらず思いつくままに、時間をかけて喋った。姉のやり方とは正反対だった。それは私が下の子で、決めきることをそこまで求められてこなかったからかもしれず、姉はこうやって大人の期待を乗り切ってきたのかもしれない、と思う。祖父のお葬式のとき、姉は小学生でも悼辞を詠まされるから、緊張していた記憶しかないと話していた。
私の悼辞があとから、すごく良かったと何人かから感想をもらった。それぞれの思い出に、触れるようにできたなら良かったと思う。気持ちがきちんと祖母の死に対してあったからこのやり方で上手くいくと思っていて、前日の夜、このことだけには確信していた。
いろいろなひとからお悔やみの言葉をいただくという経験も、多分このときが初めてで、私はお辞儀というものがそれまであまり得意ではなかったけれど、本当に心から「ありがとうございます」と思って、それ以上なにも返す言葉がないときは、あたまをきちっと下げられるものだと思った。とくに変でもないし、怖くもなかった。いくらお辞儀をしても、お気持ちに足りないから。

お葬式は、故人に思い出があって、知っている人たちがそれを話したり、ただだまって思い出したりしながら、食べたり飲んだりもして、故人とちゃんと死者として付き合う準備にみえた。

(後半に続く)

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