考えごとをして、いつもどこかへ行方をゆだねたまま歩いた。結局気付けないことはいくらもあって、この世界に生かされ、甘やかされている。私はすぐに飽きてしまって、目をあちらこちらへと動かす。語ることなど、本当はないはずだ。この世の悲しみなど負えないはずだ。いつの間にか強欲な誰かが、私を外へ追いやって、それをみろという。
夕暮れの鉄塔が何をか言わんやだ。
私たちは想像以上に生きている。
今日はいつもはしないことをした。
小さな庚申塔にしゃがみこんでお参りをした。
少しだけ、そこで祈る誰かに、自分を重ねてみたかったのだろう。歩くことで何をみつけるだろう。何もないことはないが、あるいは特筆すべきことがないということは、知っておかなければならない。そして、特筆すべきことはないあの景色たちが、不意に心に触れてくるのだと知っておかなければならない。
私たちは痕跡をみる。私は痕跡を探している。
いや、世界のほとんどは痕跡であるから、みてしまうのだ。
痕跡から時間を知る。動いていた時を知る。
今朝慌てて出かけていったあなたの痕跡が、家の前の鉢植えに手を掛けるあなたの痕跡が、家族のためにふとんを干したあなたの痕跡が、そこで誰かのために祈った多くの人の痕跡が....
あるいは、地球の痕跡
そして消えていったたくさんの時間。
「この世の悲しみ」
なぜあまりに甘やかなの。
甘やかなことなどどこにもないのに、甘やかなふりをしている。
世界は優しい。あたりまえのように、生み、殺す優しさ。
甘やかではない。
それでも世界は私を甘やかす。私は甘やかされている。
束の間
間
***
触りすぎていてまとまっていない。
甘やかという表現があるのか知らない。
以上
この間林真理子の小説に甘やかという表現が出てきたから、甘やかという表現はあるのかもしれない。
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