2010年9月28日火曜日

つぶやいてばかり

ツイッターについて考える。

私は、まぁ、身も蓋もない言い方をすれば、だだ漏れ状態です。
フォローしてくれているみなさまには、さぞやご迷惑をおかけしていることでしょう。
だからといって、このペース、崩すつもりはありません。
というか、なにやら大事なことのようなのです。
私がいつも通り過ぎて、やり過ごしてしまおうとしていた私にとって一番大切な気持ちを、つぶやくことで少し自分に思い知らせることができるから。

無視をするのはいけないことです。

体に毒。でも、気付かない。気付かないようにできてる。

少しずつ、崩れていく。
片側から、砂のように崩れていく。わたし。
を、少しだけ、眺めている。

そして、みんなのつぶやきも、わたしに触れることがある。
そのとき、私の興味を、通り過ぎようとしていた興味を顕在化させる。
だから、繋がっていることに、価値があるのだと。

なにか他にもきっといろんな要素がある。
それで、それぞれに、それぞれの価値観で、利用する。
その余剰がなんともいいじゃない。
ねぇ?

2010年9月27日月曜日

会ったことがある人

この半年くらい。
とてもたくさんの人と出会った。
新しい出会い自体が珍しいとか、そういうことじゃなくて、私にとって大切な人ばかりに出会ったと思う。
こんなにも好きな人ばかりで、こんなにも、正しく感じられる。
これがどれだけ幸せなことか。

そして、何度も何度も、「会ったことがある」という感覚におそわれた。
絶対に初めて会う人だ、と頭でわかっているのだけれど、絶対に会ったことのある人だ、という感覚が体中で沸き上がるのだ。
もう、前から知っている人のように。思えて仕方がない。

そうして出会った人たちを、そうであったのだと忘れないように。

私の美しい部分をなくしてしまわないように。
ただ、そこに想いを重ねておきたい。

2010年9月25日土曜日

東京の条件:9月総会

総会に行ってきた。一日中いたのは初めて。
けのび『等々力』50分ver.みました。
面白かったです。

「面白かった」かどうか。
それが問題である。

まずはじめに、「面白い」というには抵抗があった。
なにかしら「面白い」と思われる要素がわかったなら、「面白い」ともいえるだろう。
しかし、私には「なにをやろうとしているのか」「どういういみをもっているのか」はわからなかった。すくなくとも頭では。
何か近い所までは感じられている気がする。
それは本気で取り組んでいる感じなのかもしれない。
その少ない気配と、感覚的に「楽しかった」と感じたことと、「美しいな」と思ったことを合わせれば、やっぱり「面白かった」と言えるのかもしれない。
とくに一部は楽しかった。体が寄せられて行くような感覚と、意識が遠くまで行ってしまう感じがしたから。
でも言葉とか、がたがたした二部は局所的にわかるので、それはそれで「面白い」と言っていいのかもしれない。

ただ、このような「面白い」か「楽しい」かという疑問が浮かんでしまうこと自体、私が演劇的文脈とかそういうことがわからないばかりでなく、本当にどうでもいいからだと思う。
これも常に、「どうでもいい」ならなぜここまでこだわっているのか、が問題となる。
これを検証することがかなり早急に求められていることは言うまでもない。
そのためには、この興味のない領域について詳しく知るべきだが、その過程で私は向こう側へ取り込まれてしまう可能性もある。そうなった場合、今のこの興味はどこからくるのか、検証しようがなくなるかもしれない。それを恐れている節はある。

どの人にせよ、今後が楽しみだ。私はみてみたい。そう。みてみたいということだけは間違いがない。
ただ、私はこのなかで何をすべきなのか。どうあるべきで、どうありたいのか。
もう少し、考えながら歩いてみよう。

岸井さんの『地域密着型演劇センター』という話。
これもそう。論理の確実でない部分というのは、もちろんある。それ自体がほんとかうそかということはある。
でも、そんなことはこの場合意味をもたない。少なくとも30%くらいそれが真実であると思える部分があるなら、後の検証はやってみればいいと思う。
自分の側に向かって間違ってしまっているのでなければ、それでいいと思う。
これも、みてみたい。ということ。

私の立場からは、そこまではどうでもいいということが多いのかもしれない。
ただ、私の問題は、彼らにとってはどうでもいいということも然りである。
とはいえ、彼らの用いろうとするメソッドが確実に私の問題にとって重要であることは言うまでもない。このことは忘れてはいけない。
しかし、「私の問題」というものがまだまだ揺らいでいる。これをなんとかしなければいけないだろう。
少なくとも、私の存在が何かひとつ、集団が強固なものになるときに必要な異種性をもっていると言えると思っている。それは、「同じなのに違う」といういこと。

だから、私は私として、なにか貫いてしまわなければいけないのだと、わかっている。
ただ、無視しては進めない。

ああ、今日は、楽しかった。

2010年9月24日金曜日

女生徒

太宰治『女生徒』を昨日読み終えた。
つとつとと、ずいぶん前から読んでいたのだが、ようやく読み終えた。

とても、美しかった。

私は、最後の文章が離れない。

「おやすみなさい。私は、王子様のいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?もう、ふたたびお目にかかりません。」

これが、若い女の死に絶えるときかと。
そして美しいままで居れない人間なのだと。
ただもう、何も言えない。

2010年9月21日火曜日

構想

一つ、自分の活動の構想が出来た。不意に。
これは、絶対にやりたい。やるべき。意味がある。
しかも面白い。

まだ、プロジェクトとしての打ち方とか不確実なので、構想ができた喜びだけ記しておく。

ときめきについて

「ときめき」について考えていた。

「橘花ちゃんは何をされたらときめくの?」
ときかれたのが発端。

みんなはそういうときめきポイントがあるらしい。
例えば「電車で人がわーっと乗ってきて、ぶつかりそうで危ないときに近くに引き寄せてくれる」とかという話。

よく考えたら、今まで好きになった人のことを思い返してみて、「対自分」ではなく「対他人」の態度でときめいていたように思った。
これって、多分自分の周囲の価値観や社会性ばかり考えていたってことじゃないか?

なんだかとても自分が残念になった。
そして、それらは基本的に上手くいっていない。
だから、もっとちゃんと「ときめきに正直」になってみようかと。

なんて思っていたら、ときめく出来事が。。何度か起きた。奇跡(笑

でも意外と単純なことな気がした。
「ときめき」を感じたら、昔のときめきも甦ってきた。
高二のとき、雪の中に出て行って、頭に雪をつけて教室に帰ってきたら、「ついてるよ」っていいながら取ってくれたのにはときめいた。
別にその人全然タイプじゃなかったけど、とりあえずときめいた(笑
これって、タイミングとか絶妙で、頭に手をやる前に「ついてるからとるよ」とか言われちゃったらときめき半減。
こっちが怖くない程度に手をあげてこっちが「?」ってなってるところで、雪を取りながら「ついてるよ」と言う。でなきゃ。

と、なにくだらないこと熱く語ってんだ。。

いや、重要なことは私のときめきは「ちょっとだけおにいちゃん」みたいなことをされると起きるっぽいということだ。

別にちゃんとしてなくてもいい。私に優しいまなざしを向けていてくれているとわかることが大事。
違うところで間抜けなことしてたりドジってたりしててもフツーに萌えますし。笑

そういうやさしさをもとめているようだ。

2010年9月11日土曜日

逃走/回避/拒否

誰もいない夜のアスファルトを私は裸足で走っていた
だれも追ってきてはいない。
そのことに安堵しながらも、足は止まらない。
足を止めるわけにはいかなかった。

いつなんどき、なにかに襲われるとも限らない。
足はもう、前には動かないのに。
足の裏はもう、痛くてついているのがやっとなのに。

私はまだ。
まだ、倒れるわけにはいかない。
まだ。
追いつかれるわけにもいかない。

足よ、動け。
まだやれる。
まだいける。

動け。動け。動け。

あの闇に向かっていけ。
あの坂を上っていけ。
その川を飛び越えろ。
その崖を飛び越えろ。

あなたも、わたしも、たしかに足で地面を蹴っている。
それだけが、変わらない事実。